2005-04-01から1ヶ月間の記事一覧

ロッキード事件

田中政治の暗部の一端を露呈させた事件が、昭和末期の政財界を揺るがせた「ロッキード事件」であった。民間航空会社の次期大型旅客機導入に際し、首相が口利き料として多額の賄賂を受け取っていたと言うもので、当時の政財界のみならず日本中を揺るがせた事…

「田中政治」の功罪

田中政治で問われた問題点は実に多い、「政治とカネ」の問題、公共工事を通じた国費のバラマキ・無駄遣い、田中の作った上越新幹線はキロ当たり建設費に60億円も掛った、10年前に建設された東海道新幹線がキロ当たり7億円だった。如何に公共工事という出費が…

「タレント」選挙

不況下の74年7月、参議院選挙は全国区の大量のタレント候補を立て、未曾有の金権選挙となったにもかかわらず自民党は敗れ、自民党内の田中批判は頂点に達した、有力閣僚の三木・福田両氏も辞任し世論の支持率も急低下してしまった。 そこへ追い討ちをかけた…

テレビの威力

然し、その際、テレビ・新聞報道が結果的には一般国民の不安感を募らせて、多数の一般家庭の主婦の買いだめを煽った、と言われている。 或る主婦が2年分のトイレットペーパーを買いだめした、と大きく映像で報じて、視聴者に必要以上に不安感を募らせる事と…

「油断 !!」

然し、田中内閣は発足後、先ず経済面で問題を抱え込む事となった。1973年(昭和48年)10月、中東で第4次中東戦争が勃発し、それを機にOPECは原油価格の一斉70%の値上げを発表した。これは世界中に大衝撃を与えた、日本へも「石油ショック」として直撃したも…

列島改造論の波紋

「今太閤」ともてはやされ、華々しく登場した田中内閣は、就任早々の9月25日から5日間、電撃的に訪中した。周恩来首相と日中共同声明を発表し、日中国交を回復し世論の圧倒的支持を得た。その時の模様は,衛星中継で日本のお茶の間に、細大漏らさず放送され…

日本列島改造論

佐藤内閣終盤の昭和47年6月に通産大臣田中角栄氏は「日本列島改造論」を発表、当時のベストセラーを記録するものとなった。従来、表日本に偏在していた経済の恩恵を裏日本や過疎地帯にも及ぼそうと言う池田勇人の「所得倍増論」の向こうを張った意欲的「政策…

赤字国債

昭和40年の戦後初の赤字国債発行時、禁じ手を破る口実(辻褄を合わせるため)として、政府は「財政処理特別措置法」を国会に提出し、1月19日の国会審議の末立法させている。 要するに「今回は特殊の事情があって赤字国債を出すが、これは見通しがあって、今…

田中内閣誕生

佐藤内閣の後は田中角栄内閣となった、田中角栄氏は第一次佐藤内閣で大蔵大臣を、第三次佐藤内閣では通産大臣を勤めた。大蔵大臣当時の昭和40年11月の第二次補正予算で「不況対策」と称して戦後初の2580億円の赤字国債を発行した。 赤字国債の発行は財政法で…

マスコミ同士の戦いに変質

NHKは「政治家と一緒」になって「朝日新聞の報道」が「虚偽だ」として問題にしている。NHKは、今日21日も「公共の電波」を使って全国に向け、高い視聴率を誇る「NHKニュース」の中で朝日新聞を攻め立てている。 「自主的に改変した」のであって「事…

マスコミの屈服

警察情報からリークされてこの問題は、テレビ・週刊誌・新聞社、社会部の特種記者の絶好の「ネタ」となってしまった。結局毎日新聞が敏腕政治記者を「解雇」、外務省職員は極秘文書を渡した罪で「懲戒解雇」となって一件落着したのである。政治家と警察は協…

佐藤首相最後の記者会見

昭和47年6月17日、佐藤栄作総理が引退表明をした。その時の記者会見場で「新聞は偏向している、新聞記者諸君は帰ってくれ」「テレビはどこだ」「NHKは前へ出て来なさい」あの沈着冷静な佐藤氏が気色ばんだのだ。新聞記者が席を蹴って退席した後、結局佐藤…

視聴率90%の「テレビ時代」

その後起きた「浅間山荘事件」(47年2月19日)、を含めテレビ時代の絶好の好餌として終日お茶の間の話題として、細大漏らさず現場からNHK・民放各社揃ってテレビ中継放送された。浅間山荘事件中継時の平均視聴時間が7時間、視聴率が89.7%の高率を記録し…

東大「安田講堂」攻防事件

東大紛争が起きたのは昭和43年から44年にかけてであった。1月18日安田講堂封鎖解除に機動隊8500人が出動、放水車・催涙ガス弾4000発投入374人が逮捕される大攻防戦だった。学歴社会の頂点に位置する東大生自身から現状打破に一石を投じたものだった。然し…

沖縄復帰

事実、佐藤首相は在任中に沖縄復帰を果たした。実際に沖縄返還協定調印されたのは首相就任6年後、昭和46年6月17日であるが、その間の交渉上の障害は「米軍基地」の存在と「核」問題であった。佐藤首相は当初「核抜き本土並み」を表明していたが、最終的に…

ベトナム戦争

佐藤内閣発足は1964年11月、その前8月に「トンキン湾事件」が起き、アメリカの本格的ベトナム介入が始り、「ベトナム戦争」は73年に和平協定締結に至る実に8年余りの長期に亘るものだったが、佐藤内閣の7年半も正にその期間に符合するものであった。 それだ…

佐藤長期政権誕生

池田首相の後任候補として河野一郎・藤山愛一郎・佐藤栄作3氏が名乗りをあげ、総裁選出は混迷状況となった。結局、病床の「池田裁定」に持ち込まれ、氏は吉田茂元首相の勧めもあって佐藤栄作氏を裁定せざるを得なくなった。(中村隆英著「昭和の歴史」) 池…

池田政治を阻んだ「病魔」

池田氏はそれらを見届けるように11月25日「引退発表」をした、発表では「前がん症状」であったが、後「喉頭がん」と発表され、1年半後の昭和40年8月13日逝去された、未だ65歳と今から思っても若い死であった。 翻って、池田首相は戦後政治史稀に見る「名宰相…

距離感を変えた「新幹線」

この日のために整備を進めていた国内交通施設も相次いで完成した。東名高速、都内の主要地下鉄網の整備、更に11月1日からは日本で最初の東海道新幹線が営業開通した日である、東海道新幹線は「夢の超特急」と呼ばれ多くの国民も待ち望んで来たものだった。 …

世界を一つに「オリンピック」開催

池田氏引退発表直前の10月10日から24日まで、世紀の「東京オリンピック」が開催された。当日池田氏は入院中の病院から駆けつけ開会宣言を行っている。 日本でのオリンピック開催は、昭和15年開催予定が日中戦争のため中止されて、長年待ち望んだものだった。…

世界を変えた「衛星中継」

それは宇宙衛星を通してテレビ映像が国境を越え、地球上を同時中継可能にした事実である。その時を境に、地球上の人類が時空を越えて情報を共有し、それが祭典であれ、例え戦争現場であろうとも、テレビカメラを意識せざるを得ない時代に入った事を意味する。…

和を重んじる池田政治

病で倒れ、引退表明した池田氏が最後にやった事は吉田茂元総理の強い要請を汲んだ「裁定」での佐藤栄作氏の指名であった。「経済の事は池田に任せて下さい」と言うだけあって、池田首相の所得倍増政策は岸元首相の安保問題で国論が二分され亀裂を生じていた…

テレビ視聴時間比較

90年代、一日あたりのテレビの視聴時間は、日本では3時間30分であるのに対し他の国では2―3時間で、日本が突出していると言う。 欧米人が能動的であるのに対し、日本人は受身の受動的生活指向なのかもしれない。

テレビ国民意識比較調査

又、NHKは80.81年に日・米・ドイツの国民意識比較調査を行っている「もしこれから2−3ヶ月間生活するのに、冷蔵庫、自動車、新聞、電話、テレビの内一つを持てるとしたら何を選びますか」の質問に対する回答である。 アメリカ人 冷蔵庫42% 自動車39%…

テレビの聴視時間(平日)

60年 テレビ 56分 ラジオ1時間34分 新聞 29分 65年 テレビ 2時間52分 ラジオ 27分 新聞 20分 尚、80年、NHK国民生活時間調査では94%の人が1日少しでもテレビを見ている、との事である。

テレビが逆転、媒体別広告費

59年の新聞広告が 618億円、ラジオ広告162億円、テレビ広告が 238億円 75年には新聞広告 4092億円,に対しテレビの広告が 4208億円と、逆転した。

統計で見る「テレビ時代」

ここで60年代にテレビ時代に入ってラジオ・テレビ・新聞が夫々どのような位置付けになったのかを見る事としたい。(下記の資料はNHK出版「放送の20世紀」から引用) 60年末契約件数 ラジオ 1180万件 テレビ 686万件 61年末契約件数 ラジオ 945万件 テレビ 1…

「所得倍増」池田内閣誕生

11月20日の総選挙を前に12日、NHKで日本最初の「三党テレビ・ラジオ討論会」が開かれた。アメリカの大統領選挙に倣ったものだが、4日後、引き続き2回目も開かれた、争点は「安保・暴力・経済政策」で、国民の関心も高く、全国で2000万人が聴視したとの調…

安保闘争後

安保反対運動が、結果的に不首尾に終わった事は国民の間に大きな無力感と挫折感をもたらした。時間切れで自然承認となるまでの間、岸は国会で実弟佐藤と二人でスコッチを飲みながら時の過ぎるのを待った(岸氏の後日談) 岸のあとを巡っては、かねて党人派実力…

不偏不党

NHK出版から出ている「放送の20世紀」によると、岸首相は「安保改定問題」で、NHKに対し「首相単独での所信表明」をさせるよう申入れていたそうだ。然しNHKは単独の出演は断った、首相の言い分だけを「一方的に放送」する事は、放送法に決める「不…